元毎日新聞社会部警視庁捜査1課担当、小川一さんインタビュー

 1995年3月20日にオウム真理教の引き起こした地下鉄サリン事件が発生してから、今年で30年となった。また、地下鉄サリン事件の1年前には同じオウム真理教による松本サリン事件が引き起こされた。これら未曾有の事件の記憶は風化しつつあり、事件後に生まれた人はこれらを「過去の歴史」ととらえる風潮がある。そこで私たち神奈川大学・静岡大学の学生記者たちは、当時両事件の最前線で取材を担った元毎日新聞社会部警視庁担当の小川一さん(66)にインタビューを行った。「サリン」という前代未聞の神経ガスが使用された両サリン事件をめぐっては誤情報が飛び交い、マスコミの誤報も多発した。小川さんに改めて一連のオウム事件の報道についてうかがい、これからの情報との適切な向き合い方について考えてみたい。

【小川一さんインタビュー取材班】

元毎日新聞記者、小川一さん(横浜市の神奈川大学みなとみらいキャンパスで)

――社会部ではどのような仕事をしていたのですか?

小川(以下◆)当時社会部には100人ほど部員がいて、私は警視庁担当として1987年~1990年、1994年~1996年までの計5年間を過ごしました。それ以外のときは遊軍(特定の担当を持たず、事件に臨機応変に対応する役割)を中心に活動し、さまざまな企画や連載記事に取り組みました。また1992年には宮内庁担当として、天皇陛下の中国訪問に同行したこともありました。

――地下鉄サリン事件が発生した1995年より前のオウム真理教について、小川さんは記者としてどう見ていたのですか?

◆オウム真理教は、1989年ごろに選挙活動や出家者をめぐるトラブルなどを起こし、社会から注目されていましたが、その後は選挙でお金を使い果たしたこともあって、力をそがれたという雰囲気になっていました。過去にオウムが起こしたと疑われる事件もうやむやになり、オウム真理教は我々社会部記者の「認識の外」となりつつあったように思います。

サンデー毎日によるオウム真理教追及キャンペーンが始まった

――オウム真理教に対して初めてマスコミによる追及キャンペーンを行ったのは毎日新聞社が発行する「サンデー毎日」でした。そのときの状況はどのようなものだったのですか?

◆今から思うとよく闘ったものだと思います。毎日新聞社の正面玄関にはいつもオウム信者がおり、車のスピーカーで怒鳴ったりチラシを配ったりして毎日新聞社やサンデー毎日編集部への批判を行っていたほか、代表電話には嫌がらせの電話がじゃんじゃんかかってきました。さらに、キャンペーンを指揮したサンデー毎日編集長(当時)の牧太郎さんも命を狙われていたことが、後のオウム裁判で明らかになりました。

オウム真理教追及キャンペーンを開始したサンデー毎日(1989年10月15日号)
毎日新聞東京本社正面玄関(東京都千代田区) オウム真理教は毎日新聞社をダイナマイトで爆破するという計画も立てていたことが、後に裁判で明らかになった

――サンデー毎日と連携してオウムへの批判活動を行っていた坂本堤弁護士と妻子が殺害されたことについて、事件の担当記者としてどのように感じましたか?

◆1989年当時、坂本一家行方不明事件の犯人はオウムしかないと思っていましたが、証拠がありませんでした。加えて、私は1990年の12月に麻原彰晃(オウム真理教教祖)に単独インタビューを行いましたが、あまりにも突飛で軽薄なことを言うので、周到な犯行をやり遂げる力があるのか、もしかしたら犯人ではないのではと思ったくらいでした。それゆえ、事件の真相が判明した際には断腸の思いでした。

【坂本堤弁護士一家殺害事件】

 サンデー毎日は1989年より、7週間にわたるオウム真理教追及キャンペーンを行った。しかしキャンペーンを始めた約1カ月後の11月4日、サンデー毎日と連携してオウムへの批判活動を行っていた坂本堤(さかもと・つつみ)弁護士と妻子が失踪した。当初からオウム真理教による犯行が疑われたが決め手がなく、一家の遺体が新潟県や長野県の山中にバラバラに埋められていたことが解明されたのは、麻原彰晃や幹部が相次いで逮捕された1995年になってからのことだった。

両サリン事件では最前線で指揮を執った

――松本サリン事件が発生した当時、小川さんは社会部の遊軍担当でしたが、直接取材することはなかったのですか?

◆1994年当時、私は東京社会部の遊軍として活動していました。その日はたまたま泊まり勤務(社会部記者は交代で月に3回程度、夜間の事件・事故・災害発生対応の泊まり勤務がある)で、就寝中の未明「松本で昨夜不可解な有毒ガス事件が発生した。応援に行ってくれ」と編集幹部に言われ、私は松本支局への応援部隊として、もう一人の記者と車で現地へ向かいました。到着後、私は松本支局で取材指揮をとり情報をまとめ、当日の夕刊の記事を書きました。ただ、一体何が起こっているのかさっぱりわかりませんでした。当時「サリン」の知識は、長野県警や私たち記者にほとんどなく、「奇病の一種か」と書いた新聞さえありました。

――そうした中で第一通報者の河野義行さん宅が長野県警の家宅捜索を受けたことをきっかけに、マスコミは一気に「河野さん容疑者説」に傾いてしまったのはなぜでしょうか?

◆長野県警が家宅捜索をした事実は重く、警察内部でも河野さんを疑う見方が大勢でした。事件記者の場合、主な取材対象が警察です。警察の見方を伝えることが仕事の柱のひとつです。警察の中にどう食い込むか、どうやって情報を取るかということに集中してしまいがちになり、それは次第に警察と同じ見方や考え方に染まっていくことにもなります。それゆえ、警察が容疑者を河野さんだと思い込めば、マスコミもそれに追従してしまう結果になってしまいました。

――翌年の地下鉄サリン事件がオウム真理教の犯行であったことが判明し、河野さんの容疑は晴れました。後に小川さんは毎日新聞としての検証記事をまとめたり、河野さんとともにパネリストとして事件を振り返るシンポジウムに登壇したりしましたが、それらの経験からマスコミの問題点・反省点についてお聞かせください。

◆松本サリン事件については痛恨の思いです。報道の使命と目的は読者や社会に正確な情報を伝えることです。事件記者は捜査に誤りや行き過ぎはないか、人権は守られているかなどをチェックすることも求められます。その根幹のところがおろそかになっていました。また、競争相手の新聞社やテレビを意識するあまり、過剰な報道合戦になっていたとも思います。大きな反省点がいくつもあります。

事件の真相が解明された後は、当時の報道に関わったひとりとして、強く反省し再び繰り返さないよう取り組んできたつもりです。河野さんと一緒にシンポジウムに登壇したのもその取り組みの中でのことです。事件当時の報道のあり方に対する検証記事をとりまとめた際も、当時としては異例の大きな紙面を使って展開しました。河野さんのインタビューも丁寧に掲載したつもりです。

シンポジウムでは、河野さんに直接謝罪を行いました。河野さんからは「マスコミに犯人にされそうになったと同時に、マスコミがいたからこそ私は逮捕されなかった」と言っていただきました。その時は本当に胸が熱くなりました。河野さんのマスコミに対する冷静な視点には多くのことを教えられました。

【松本サリン事件】

 1994年6月27日、長野県松本市で発生したサリン被害事件。7人が死亡し、約144人の負傷者をだした。当初、第一通報者の河野義行(こうの・よしゆき)さんが、サリン製造に関わったと警察から疑われ、多くのマスコミも河野さんが犯人であるかのように報道した。(事件の14年後、河野さんの妻もサリン中毒により死亡)。しかし後に、オウム真理教が教団の土地売買を認めなかった長野地方裁判所松本支部の判事の宿舎を狙ってサリンを散布したということが判明した。

現在の東京メトロ丸の内線 地下鉄サリン事件では首都圏の地下鉄が狙われた

地下鉄サリン事件で 後輩記者が被害に遭う

――松本サリン事件の翌年には地下鉄サリン事件が発生しました。小川さんは当時何をしていましたか?

◆1995年の3月20日の朝、私は警視庁担当記者のサブキャップとして、東京・桜田門にある警視庁庁舎の記者クラブ毎日ボックス(部屋)で泊り明け勤務をしていました。午前8時ごろに救急車の音が聞こえ、警視庁そばの地下鉄霞ケ関駅付近に止まったようなので、クラブにいた後輩記者に見に行くよう指示しました。それが事件の発生を認識した始まりでした。

警視庁や消防庁からは「●●駅で●●人緊急搬送」という連絡が次々と入り、一体何が起きているのかまるでわかりませんでした。事件により電車が全て止まっていたので、多くの記者が足止めされ取材に行くことができずに大変でした。その後捜査1課長から、使用された物質がサリンだという発表がありましたが、記者たちは一瞬、虚を突かれて固まったようになったといいます。しかしすぐに報じなければ被害者の適切な治療につながらないということから、急いでサリンの一報を報じました。

私が取材を指示した後輩記者は現場でサリンを吸ってしまい、治療を受けることになってしまいました。知らなかったとはいえ、その記者が被害を受けたのは痛恨の極みです。

現在の東京メトロ霞が関駅構内 事件では丸の内線・日比谷線・千代田線が狙われた

――地下鉄にサリンがまかれたと知った時、小川さんは松本サリン事件やオウム真理教との関連を疑いましたか?

◆地下鉄サリン事件でサリンが使用されたということから、私は松本サリン事件との関連や、オウム真理教の犯行を疑いました。なぜなら、その年の1月1日には富士山麓のオウムの教団施設からサリン残留物が見つかったという読売新聞の特報がされていたほか、地下鉄サリン事件が起きる2日後には警察によるオウム真理教への強制捜査が予定されていたからです。毎日新聞は、近日警察によるオウムへの強制捜査が行われるという情報を事前につかんでいましたが、そのような中で事件が起きてしまいました。

厳戒態勢下で取材体制を敷く

――地下鉄サリン事件が起こった後の流れをお聞かせください。

◆大変なことが起きたということで、すべてのマスメディアが総力態勢を組んで取材にあたりました。社会部も厳戒態勢に入りました。警察の強制捜査にも多くの記者を導入しましたが、サリンがまだ教団施設内にあると考えられていたので、不安と闘いながらの取材でした。強制捜査後も、新たにさまざまなオウム真理教関連の事件が起こりました。そうした事件発生への対応に追われる一方で、オウム真理教幹部の逮捕が相次ぎ、捜査も進展していきました。捜査の進展を取材していたら事件が起きて現場に飛び、その現場からまた捜査が進むという未曽有の忙しさでした。

――小川さんにとって、オウム真理教との区切りはいつになったのかお聞かせください。

◆私にとって一つの区切りとなったのは、1995年9月に坂本堤弁護士一家の遺体が発見されたことです。3月に起きた地下鉄サリン事件から9月の遺体発見まで、怒涛のような半年間でした。

松本・地下鉄サリン事件の教訓

――小川さんが松本サリン事件と地下鉄サリン事件から学んだ教訓をお聞かせください。

◆仮に現在同じ事件が起きても、また同じミスをしたかもしれないと言えるぐらい難しい問題です。当時の状況は、現在のネット空間においてさまざまな誤報や虚報が飛び交っている状況ととてもよく似ています。

なぜかというと、記者やジャーナリストは報道する自分の分野に対しては専門的な知識をもとに記事を書いています。しかし、サリンといった専門家も数少ない未知の科学分野に対しては、まったくの素人として取材に入ってしまいました。それは現在のネットで、自分が詳しく知らないことについてほかの意見をうのみにして発言する状況と似ています。

松本サリン事件についても未知の病気と報じたり、サリンはバケツで簡単に製造することができるという発言をうのみにしたりして報じていました。オウムの起こした事件から30年が経過した現在、私が言えることは、「ひとりひとりが人の意見を安易にうのみにしないこと。とりわけ自分の知らない分野や、初めて知ったことについては慎重に接すること」が重要だということです。

現在も東京メトロ霞が関駅構内にある「地下鉄サリン事件に関する追悼プレート」

――オウム真理教が残したさまざまな影響についてお聞きしたいと思います。1995年の地下鉄サリン事件を機にオウム真理教の全貌が明らかになり、小川さんはどのように思いましたか?

◆知らない間に重大な問題が深く静かに進んでいることがあるのだと思い知らされました。また、いかに当時のマスコミのアンテナの範囲が狭く、バイアスがかかっているということにも気づかされました。社会部は警察の視界の範囲内、政治部は政治家の視界の範囲内、経済部は経済人の視界の範囲内のニュースしか見てないのではないか。そのことを肝に銘じなければいけません。「視界の範囲の外には全く異なる重大なニュースが数多く埋もれている」ということが、私がこのオウム真理教の事件から学んだ教訓です。

――小川さんは一連のオウム事件について、警察の動きが遅かった理由をどのようにお考えですか?

◆それはやはりアンテナの範囲外であったことや、宗教団体が関係しているというバイアスがかかっていたことがあると思います。また松本サリン事件などの地方で起きた事件については、県警だけでは処理できないほど大きな事件であったこともあると思います。それゆえ、大きな事件の際は県警の壁を越えて協力するような体制が整備されていれば、より迅速に動くことができたと考えられます。

オウム真理教事件が残したマスコミの課題

――オウムの一連の事件が残したマスコミへの課題とは何かお聞かせください。

◆やはり、松本サリン事件における報道が河野さんの報道被害につながったことへの痛恨と、オウム真理教について「事件が起こらなければ、警察が動かなければ記事を書かなかったのか、注目しなかったのか」ということです。まさに「アンテナの範囲外」となっていました。このような事例は現在のさまざまな事案にも当てはめることができます。

このように、大きな事件や問題が起きたときにだけ注目し、しばらくすると忘れ去られるという報道のあり方が積み重なった結果、膨大な「圏外」が生み出され、その圏外から深刻な事件が発生してしまうと言えます。現在も我々の認識の外では、大きな問題が起きていると思います。報道機関は常に広い範囲のアンテナを張る責務があるといえます。

――オウムの一連の事件から考えるSNS(ネット交流サイト)の悪い点と良い点をお聞かせください。

◆もしもSNSが発達した現在に松本サリン事件が起きたとしたら、当時より河野さんへの誹謗中傷(ひぼうちゅうしょう)はより過激に深刻なっていたと思います。また、オウム真理教も今の時代に適応すれば、SNSを使いフェイクニュースを発信し続けると思います。加えて、SNSには閲覧数に応じてお金が入ってくる仕組みもあり、読者の興味関心を引くために情報の正確性が軽視されている現状もあります。私は、誤情報やフェイクニュースに惑わされないためには、私たち個々人が「受け取った情報に対しよく考えること」が大事だと思います。

 SNSの良い点として、たとえ私たちひとりひとりの知識やアンテナは狭くても、SNSでは多くの人の声を聴くことができ、広い範囲の情報を知ることができます。また、多くの人が考えたさまざまな論点を知ることは、自分の知見を深めていくことにつながります。

SNSとの適切な向き合い方について考えるとき、まずは地道な情報リテラシー教育や、誹謗中傷に対する法制度の整備といった教育・制度的なものが必要であるともいえます。

――小川さんが考える、情報を伝えることの意味や心構えについてお聞かせください。

◆私にとって情報を伝えることの意味とは、「正しいことを正しいと伝えたい」、「いい意味の共感として伝えたい」、「自分が信じたものを伝えたい」ということです。

私が1987年に起きた放火事件の取材へ行った際、まだ携帯電話がない時代で、公衆電話で原稿を伝えようとしたときには長蛇の列ができていました。しかし、行列のひとりの方が私を新聞記者だと気づき、周囲に伝えると優先的に電話を譲っていただき、素早く事件のことを本社に伝えることができました。そして無事に原稿を伝え終わると拍手が起こりました。当時と現在の社会のマスコミに対する態度や考えは異なりますが、どの時代でも相応の覚悟を持って情報を伝えていく心構えが必要です。

――オウムの一連の事件から30年が経過しようとしている現在、社会情勢や事件の風化を受け、今何を思い、私たち若者に何を伝えたいですか。

◆カルト宗教はどの時代においても闇の部分として存在します。悪意(本人たちにとっては善意)を持って社会を変えようとしています。そこに普通の若者が取り込まれていくという現象は、過去のことではなく現在も進行していることです。SNSの発達により、現在ではより簡単に、より大量の人が勧誘されてしまう仕組みとなっています。従って私は、オウム真理教の起こした一連の事件は現在も続いていると考えます。再びオウム真理教のような集団が深刻な事件を引き起こす前に、意識してカルト宗教の台頭や犯罪を防ぐような社会にしていかなければならないと思います。

 事件の風化についても、近年より強く感じるようになりました。事件について、実際に経験しておらず、はるか昔の話のように聞いている若者も増えました。しかし、「目の前には形を変えて同じような危機がある」ということを忘れないでほしいと思います。

(インタビューを終えて)

 私たちのような事件を直接知らない世代が、オウム真理教と教団の起こした事件を詳しく調べることで、この事件は忘れてはならない出来事であることが分かった。事件から30年以上がたち、当時のことを語る人も減少しつつあるなか、小川さんから当時の緊迫した状況や、マスコミ報道の問題点などを聞くことができたことは、とても貴重な経験となった。

私たちが小川さんの話から学んだ教訓は、「周りに流されずに自分の意志をしっかりと持つ」、「多くのことに関心を持ち、知識を蓄え、アンテナを広く張る」、「ひとつの物事に対し、その後も継続的に注目していく」ことである。

多くの情報があふれる現在、これらの教訓をもとに情報との適切な向き合い方について引き続き考えていく必要がある。

おがわ・はじめ

1958年京都市生まれ。81年3月京都大学教育学部卒。同年4月毎日新聞入社。浦和支局(現さいたま支局)を経て、86年4月東京社会部配属。警視庁担当時に地下鉄サリン事件が発生、一連のオウム関係事件の最前線で指揮を執った。2003~05年まで横浜支局長。その後社会部長、編集編成局長などを経て、15年から取締役デジタル担当、編集編成担当など。20年退任。現毎日新聞客員編集委員、成城大学非常勤講師、インターネットメディア協会会員。

取材班は、佐藤潤真、奥野なな子、松本さくら、中山藍(神奈川大学 みなとみらいマスコミ研究会)、木村航輔(静岡大学 しずおかキャンパる編集部)。

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